サッカー選手とコンピテンシー [大学院]
「みんなはひとりのために ひとりはみんなのために」。これはサッカーではよく使われる合言葉。道徳の授業なんかでもやっていたかな?
「人的資源管理特論」のレポートではこれを掘り下げて、”組織と個人”を論じようかと思ったのですけどね、なかなかうまくいかずに中途半端なものになってしまいました。先生、勘弁してください!では、恥ずかしながらその一部を紹介します。
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ある選手がボールを持つ。ドリブルで相手を全員抜き去ってゴールを決められるのならそれでもいい。しかし、現実のサッカーではそんなことは不可能である。目の前の相手を一人抜き去る事でさえ、ドリブルだけでなく味方へのパスという選択肢があるからこそ可能になるのである。つまり、一見個人技が優れているように見えても、必ずそこには味方のサポートが隠れているのである。
チームは勝利を目指して戦う。勝利の先には名誉やお金があるにしても、勝利という共通の目標に向けて選手、そしてベンチは一丸となって戦うのである。全体が一つの有機的なシステムとして攻撃と守備を機能させること、つまりチームプレーである。チームプレーが機能することが勝利につながる。ひとりはひとりであり、かつチームの一員である。「個の強さ」は他の仲間と連携しなければ意味をなさない。そのために、お互いがしっかりと自分の役割を全うする必要がある。
もう一つ重要な要素がある。それはサッカーは選手が自分で考えてプレーしなければならないということである。選手を支える様々な人々が存在するが、いったん試合が始まってしまえば、すべて自分たちで考えて行動しなければならないのである。指示待ち人間は役立たずである。
そしてまた、ポジションによって、それぞれが果たすべき役割も異なってくる。全員で守り全員で攻めるのがサッカーではあるが、フォワードはやはり攻撃を主に担い、デフェンダーは守備を主に担うことになる。このポジションは性格により向き不向きもある。いわば適材適所の配置が必要なのである。
コンピテンシーの定義は、ロバート・W・ホワイトによる「環境と効果的に相互作用する有機体の能力」という古典的定義にはじまり、デイビット・マクレランド、リチャード・ボヤティーズの研究を経て、「ある職務、もしくはある状況において、基準との関連で効果的、または優れていると見なされる業績と因果関係がある、個人の基本的な特性である」というヘイ・マクバー社による定義が有名である。しかし、現在までのところ、コンピテンシーについてのコンセンサスのある定番の定義はない。「高い業績」ということは最近の定義の共通項となっているが、その他ははっきりしない。このことはコンピテンシーが幅広い意味内容を内包するということであり、コンピテンシーがもつ意味合いは状況ごとに、用語が使われる場面場面で異なっている。
では、この個人レベルのコンピテンシーをサッカーという組織における選手という立場で考えてみるとどうなるか。平尾誠二氏によるラグビーのパスの事例(「組織行動の考え方」、30頁)は、そのままサッカーにも当てはまる。ちなみに「よいパスとは何か」の理解が通常よく間違っている点まで同じである。「よいパスとは何かを」知る段階から、「安定して」できるようになり、「実戦で」できたことで、「成果に」つながる。そしてそれはとても「楽しい」と感じるものである。これをゴールキーパーに当てはめてみても同じである。パスやディフェンスなどの連鎖がチームのケイパビリティ(capability)にまでつながる。個人のコンピテンシーが高まることがチームの強みになるのである。また、当然のことながら個人にとっても強みになる。勝利への貢献は楽しみばかりでなく、プロであれば収入の増加をもたらす。また、ナショナルチームなどへの選抜や、より強いチームへの移籍が可能になるのである。
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ね、中途半端でしょ?
このほか、キャリア・デザインとリーダーシップのことを取り上げてみました。それはまた別のときの紹介します。
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いやいや。。。ゾウは こんな風に論じることはとても出来ないので
素晴らしい出来栄えと思って感心してしまいます(^_^;)
この文書を うちの バカな社員に見せてやりたい!と思いながら
読ませて頂きました。
あ~ 勉強したくなってきたゾウ!
by ゾウ (2006-02-11 12:45)
いえ、大して論じてなくてほとんどエッセイですな、こりゃ。
ゾウさん、勉強したくなったときがチャンスですよー
by kage (2006-02-11 22:25)
頑張るゾウ!!
by ゾウ (2006-02-12 11:19)